慶州ナザレ園創設50周年
<記事原文>
http://www.kbsm.net/news/view.php?idx=418590
韓国人の夫を頼って海峡を越えて日本から韓国に来たものの、その後、夫と死別や離別をし、生活が困難になった日本のおばあさんが過去大勢いた。そうした行き場のない在韓日系婦人を保護し、再び日本へ帰国できるよう援助した民間福祉施設が、慶州ナザレ園である。
昨年12月14日、釜山広域市水営区にある在釜山日本国総領事公邸にて、慶州ナザレ園の創設50周年を記念する行事が開催された。李源植(イ・ウォンシク)前慶州市長をはじめ、慶州市社会福祉協議会、同社会福祉士協会、慈善団、ウボン福祉財団及び慶州市社会福祉関係者など約50名が参席し、国を越えた人類愛を実践してきたナザレ園の実績や活動を讃えた。ナザレ園は、初代園長であった故金龍成(キム・ヨンソン)先生が1972年、大田教導所に収監されていた2人の日系婦人を引き受け、保護したことから始まる。
生活に窮している多くの日系婦人を見守ってきた金先生は、生前にこのような言葉を残された。「ここナザレ園で暮らしておられる、日本人のおばあさんには何の罪もありません。強いて言えば、植民地支配を受けていた韓国人の青年を選択し、愛した罪しかないのです。おばあさんはこの国に対する加害者ではなく、我々と同じ平凡な人なのです。命がけで海を越えて韓国にやってきて、多くの苦労してこられた方です。一生を社会福祉に捧げると決めた私です。社会福祉に国境はありません。貧しい、悲しい、一人で生きていけない、そんな人なら誰でも保護しなければならない使命があるのです。」
日本への帰国を希望する在韓日系婦人が一時滞在するための施設として設けられたナザレ園は、当初、「帰国者寮ナザレ園」と呼ばれた。現にナザレ園を一時滞在場所とし、日本に永住帰国した日系婦人は147名であり、(帰国できずに)亡くなった方も100名を越える。反面、日本での身寄りがないなどの理由で日本に帰国ができない婦人、または日本に帰国したものの、生活に馴染めずナザレ園に戻ってきた婦人などがいた。その結果、ナザレ園を恒久的な安息の地とするおばあさんが増え、80年代にその数は30人以上になったと言う。こうしたナザレ園の状況を伝える本が1982年に日本で出版された。作家・上坂冬子氏による「慶州ナザレ園」である。
この本を通じて慶州ナザレ園で生活する在韓日系婦人たちの生涯が語られ、彼女たちの存在が広く世に知られるようになり、そして多くの日本人がナザレ園の無私の活動に感動した。1985年当時、筆者は、在韓日本大使館に赴任し、勤務していたが、当時のことを今でも詳細に覚えている。
2022年、著者はナザレ園を訪問し、金成龍園長の後を継いでおばあさんたちを保護している宋美虎(ソン・ミホ)園長と再会した。奇しくも、そのときが創設50周年にあたる年であった。宋園長は、新型コロナウイルス感染症の流行もあったが、ナザレ園にいるおばあさんは今や3人なので、特別な行事等は行わないと言葉少なに理由を説明した。かつて数百人に及ぶおばあさんたちの心の拠り所となり、生活苦に悩むおばあさんたちを保護してきたナザレ園の役割は終盤に入った。
国境を越えた人類愛を実践してきた慶州ナザレ園が日韓関係に与えた影響は計り知れない。日韓関係は時に浮き沈みがあるが、ナザレ園の存在はいつも我々の希望の光りであり、どのような厳しい状況も乗り越えることができる勇気を与えてくれた。著者は、ナザレ園がこれまで果たした役割を振り返り、今までナザレ園を支えて頂いた地域の関係者の皆様を招いて、感謝を伝える集まりを行っては如何でしょうかと宋園長に勧めた。
こうして実現したのが、上述の50周年記念行事である。昨年、日韓関係は著しく改善した。年間900万人以上が両国を往来するようになったが、これはコロナ感染症の流行以前の水準に肉薄する数字である。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と岸田総理は7回もの会談を行い、日韓間のいわゆるシャトル外交が再開した。日韓関係はこのように回復軌道に乗ったと言える。両国関係が早期に改善した背景には、ナザレ園のように長きにわたる民間レベルでの強い絆があったおかげである。
改めて、故金成龍園長、宋美虎園長をはじめとするナザレ園の皆様、また、ナザレ園を支えて頂いた慶州地域の社会福祉関係者、慶北新聞社の皆様に深く感謝を申し上げたい。