「過去と未来、人と自然が共生する釜山は魅力的」
令和4年10月25日
<記事原文>
http://www.kookje.co.kr/news2011/asp/newsbody.asp?code=2100&key=20150316.22025195531
釜山での4年半の勤務後に米国行き。
豊かな人情·暖かい気候に魅了された
古い建物·高層ビルの調和が印象的
韓国における反日感情の悪化、残念
「両国は共に同じ方向へ進んで行く」
事務室に入るとソファーに座って新聞を読んでいた「彼」が急いで携帯電話のメール送信を終えた。彼は「友人が良い文章を書いたので挨拶メールを送った」として照れくさそうに笑った。テーブルの上には本紙(9日付)で紹介された写真作家のキム·ホンヒのコラムが広がっていた。数年前、地域放送でキム氏が進行した「路地探訪ドキュメンタリー日本編」の取材を手伝って友達になった。「心が温かく、気配り上手」という記者からの誉め言葉の意味が分からず、しばらく首をかしげたが、彼は確かに無愛想な釜山の男とは距離があるように見えた。
在釜山日本国総領事館(東区草梁洞)の大塚剛首席領事(52)は「釜山で顔の広い人」として知られている。 文化界、行政界、経済界、言論界など、多くの人が彼を知っている。彼も彼らをよく知っている。それに韓国語も上手い。横浜市立大学経済学科を卒業(1985年)した後、延世(ヨンセ)大学語学堂(1986年9月)とソウル大学国文学科(1987年3月)で学んだおかげだ。1986年からソウルに勤め、合間に米国ハワイと南アフリカ共和国へ行ってきたが、韓国で12年を過ごした。そのうち釜山で過ごした時間が4年6ヶ月。25日に米国シアトルへ発つことになった彼と、最近、日本総領事館で会った。
「日本より釜山の方が良いんですよ。気候が暖かく、人はもっと暖かい。山と海がすぐそばにあるというのがどれほど素晴らしいことか。他の国には、こんな所はありません。釜山の人たちは、ここがどんなに良いところか知らないのです。」旅立ちの感想を尋ねるや否や、彼は釜山が一番住みやすいと親指を立てた。
「釜山は昔と現在、未来が一緒にあります。草梁(チョリャン)や南浦洞(ナムポドン)などは昔の路地があふれていますが、広安大橋から見る(海雲台)マリンシティーは一つの未来都市のようです。楽しくて、過ごしやすい場所です。私が生まれ育った東京にしても、地震のせいで、そんなに高い建物はありません。」
彼は特に釜山と釜山の人に対して繰り返し「ありがたい、感謝している」という言葉を続けた。 最近、日本で4周年の行事が行われた東日本大震災の発生時に、国内で最も早くから、あふれるほどの支援物品が集まったのが釜山だったとし、「その時の縁が今まで続いている」と述べた。「地震発生当時、総領事が変わり空白期間がありましたが、すぐそばで本当に多くの方が助けてくれました。たくさん恩を受けました。」
大塚領事は88ソウル五輪や02年W杯など記念碑的な行事がある度に韓国人たちと一緒に行ったため、とりわけ親しみを感じたという。本人の言葉によると、釜山の人とは「ケミ(人との化学反応)」が合うのだという。「以前は外交官の外国語選択の時、韓国語の割合が低かったのです。今は一番人気があります。お互い似ていて、治安もいいし。」多くの国を歩き回りながら最悪の状況を経験し、なかなか動じない強心臓になったが、約10年前に南アフリカ共和国で勤務していた当時は、乗用車から降りるのを恐ろしく感じることが多かったという。
そして、日本国内で広がっている嫌韓デモや歴史歪曲に対する韓国内の反日感情の悪化などについては、遺憾を隠せなかった。しかし「結局は両国が良くなるほかない」と確信していた。「日本と韓国は一つの方向に進んでいます。私たちが先に行った部門もありますが、両国は確かに、ともに同じ方向へ行きます。今年が韓日国交正常化50周年です。これまで互いに助け合って成長してきただけに、たったいくつかの問題でその関係が壊れることはありません。」4年半の間「とても幸せだった」という彼は、縁があればまた必ず釜山に来たい、と別れの挨拶を告げた。
http://www.kookje.co.kr/news2011/asp/newsbody.asp?code=2100&key=20150316.22025195531
釜山での4年半の勤務後に米国行き。
豊かな人情·暖かい気候に魅了された
古い建物·高層ビルの調和が印象的
韓国における反日感情の悪化、残念
「両国は共に同じ方向へ進んで行く」
事務室に入るとソファーに座って新聞を読んでいた「彼」が急いで携帯電話のメール送信を終えた。彼は「友人が良い文章を書いたので挨拶メールを送った」として照れくさそうに笑った。テーブルの上には本紙(9日付)で紹介された写真作家のキム·ホンヒのコラムが広がっていた。数年前、地域放送でキム氏が進行した「路地探訪ドキュメンタリー日本編」の取材を手伝って友達になった。「心が温かく、気配り上手」という記者からの誉め言葉の意味が分からず、しばらく首をかしげたが、彼は確かに無愛想な釜山の男とは距離があるように見えた。
在釜山日本国総領事館(東区草梁洞)の大塚剛首席領事(52)は「釜山で顔の広い人」として知られている。 文化界、行政界、経済界、言論界など、多くの人が彼を知っている。彼も彼らをよく知っている。それに韓国語も上手い。横浜市立大学経済学科を卒業(1985年)した後、延世(ヨンセ)大学語学堂(1986年9月)とソウル大学国文学科(1987年3月)で学んだおかげだ。1986年からソウルに勤め、合間に米国ハワイと南アフリカ共和国へ行ってきたが、韓国で12年を過ごした。そのうち釜山で過ごした時間が4年6ヶ月。25日に米国シアトルへ発つことになった彼と、最近、日本総領事館で会った。
「日本より釜山の方が良いんですよ。気候が暖かく、人はもっと暖かい。山と海がすぐそばにあるというのがどれほど素晴らしいことか。他の国には、こんな所はありません。釜山の人たちは、ここがどんなに良いところか知らないのです。」旅立ちの感想を尋ねるや否や、彼は釜山が一番住みやすいと親指を立てた。
「釜山は昔と現在、未来が一緒にあります。草梁(チョリャン)や南浦洞(ナムポドン)などは昔の路地があふれていますが、広安大橋から見る(海雲台)マリンシティーは一つの未来都市のようです。楽しくて、過ごしやすい場所です。私が生まれ育った東京にしても、地震のせいで、そんなに高い建物はありません。」
彼は特に釜山と釜山の人に対して繰り返し「ありがたい、感謝している」という言葉を続けた。 最近、日本で4周年の行事が行われた東日本大震災の発生時に、国内で最も早くから、あふれるほどの支援物品が集まったのが釜山だったとし、「その時の縁が今まで続いている」と述べた。「地震発生当時、総領事が変わり空白期間がありましたが、すぐそばで本当に多くの方が助けてくれました。たくさん恩を受けました。」
大塚領事は88ソウル五輪や02年W杯など記念碑的な行事がある度に韓国人たちと一緒に行ったため、とりわけ親しみを感じたという。本人の言葉によると、釜山の人とは「ケミ(人との化学反応)」が合うのだという。「以前は外交官の外国語選択の時、韓国語の割合が低かったのです。今は一番人気があります。お互い似ていて、治安もいいし。」多くの国を歩き回りながら最悪の状況を経験し、なかなか動じない強心臓になったが、約10年前に南アフリカ共和国で勤務していた当時は、乗用車から降りるのを恐ろしく感じることが多かったという。
そして、日本国内で広がっている嫌韓デモや歴史歪曲に対する韓国内の反日感情の悪化などについては、遺憾を隠せなかった。しかし「結局は両国が良くなるほかない」と確信していた。「日本と韓国は一つの方向に進んでいます。私たちが先に行った部門もありますが、両国は確かに、ともに同じ方向へ行きます。今年が韓日国交正常化50周年です。これまで互いに助け合って成長してきただけに、たったいくつかの問題でその関係が壊れることはありません。」4年半の間「とても幸せだった」という彼は、縁があればまた必ず釜山に来たい、と別れの挨拶を告げた。